元関脇・寺尾の錣山親方が、2023年12月17日死去したことが報じられました。
享年60歳。錣山親方には兄が2人おり、井筒3兄弟として角界で活躍されていました。
今回は、井筒3兄弟について調査します!
【井筒3兄弟の死因】井筒部屋の親方は父親鶴ヶ嶺
井筒3兄弟は、元大相撲力士の鶴ヶ嶺の子供として誕生しました。
長男は鶴嶺山、次男は逆鉾、三男は寺尾ですが、皆さん逝去されています。
- 父親:鶴ヶ嶺…死因は敗血症・享年77歳
- 母親:節子…死因は子宮がん・享年43歳
- 長男:鶴嶺山…死因は急性心不全・享年60歳(心臓の持病があった)
- 次男:逆鉾…死因はすい臓がん・享年58歳(持病は糖尿病)
- 三男:寺尾…死因はうっ血性心不全・享年60歳(持病は不整脈)
先に結論からお伝えします。
元関脇寺尾・錣山親方の死因は、うっ血性心不全。
2015年の秋場所中に不整脈の検査入院をしています。当時、兄の井筒親方(元関脇・逆鉾)は「心臓が肥大気味なのは間違いない。稽古(けいこ)していたから」と、現役時代の猛稽古が心臓に負担をかけていたと語っていました。
2022年11月の九州場所で「阿炎」が優勝したその時も、錣山親方は不整脈などで体調を崩して入院中でした。
2023年12月、東京都内の病院に入院中だった錣山親方は、12月17日の未明に病状が急変し、午後8時27分うっ血性心不全により逝去されました。享年60歳。
長男鶴嶺山の死因は、急性心不全都内の自宅で死去。
末弟の錣山(元関脇寺尾)によると、亡くなる前日まで経営するちゃんこ店で普段通り接客をしており、呼吸停止の状態で朝に発見されたそうです。もともと心臓の持病があったそうですが、逆鉾の死からわずか半年後のことでした。2020年3月28日享年60歳。
次男逆鉾の死因は、すい臓がん
2019年7月の名古屋場所後に糖尿病が悪化し、検査により膵臓がんが発覚。
名古屋場所後から体調を崩し、夏巡業と秋場所も初日から休場。8月から都内の病院に入院し、この日昼までは病室で知人と会話をするなどしていたが、夜になって容体が急変。
2019年9月16日午後9時11分、東京都内の病院で逝去。享年58歳。
みなさん、角界で活躍された方ばかりですね。
父親の鶴ヶ嶺は、親方として3兄弟を育て上げました。
父親:鶴ヶ嶺
鶴ヶ嶺のwikiプロフィールをご紹介します。
- 名前:鶴ヶ嶺昭男(つるがみねあきお)
- ・引退後は年寄・君ヶ濱(君ヶ濱部屋を創設、名跡変更により井筒部屋)
- 本名:福薗 昭男(ふくぞの あきお)
- 四股名:福薗 昭男→鶴嶺山 昭男→鶴ヶ嶺 昭男→鶴ヶ嶺 哲生→鶴ヶ嶺 昭男
- 生年月日:1929年4月26日
- 年齢:77歳没 死因:敗血症
- 出身地:鹿児島県
- 身長:177㎝ 体重114㎏
- 所属部屋 :時津風部屋→井筒部屋
- 得意技 :もろ差し、右四つ、寄り、上手出し投げ
- 最高位:西関脇
- 生涯戦歴 685勝678敗22休(95場所)
- 幕内戦歴 550勝583敗22休(77場所)
- 優勝 :十両優勝1回、序ノ口優勝1回 賞:敢闘賞2回、殊勲賞2回、技能賞10回
- 初土俵 1947年6月場所 入幕 1953年3月場所 引退 1967年7月場所
鶴ヶ嶺は、戦時中に海軍年少兵として海軍相撲で鳴らし、戦後は農協組合に勤務。
巡業でやってきた幕下力士の父のいとこに勧誘され、井筒親方の元に入門。1947年6月場所18歳で初土俵を踏みました。
生涯戦歴 は、685勝678敗22休(95場所)、幕内戦歴 は550勝583敗22休(77場所)、優勝は十両優勝1回、序ノ口優勝1回と素晴らしい成績を残しています。
引退後1972年43歳の時に井筒部屋から独立して君ヶ濱部屋を創設。
1977年には井筒部屋と名称を変更し、息子3人(鶴嶺山・逆鉾・寺尾)をすべて関取に、霧島を大関に育てるなど名伯楽ぶりを発揮しました。
素晴らしいですね。
2006年5月29日午後6時6分、敗血症のため大分県別府市の病院で死去。77歳没。
では、井筒3兄弟を見ていきましょう。
【井筒3兄弟の死因】元関脇寺尾・錣山親方のイケメン3兄弟画像も調査!
元関脇寺尾・錣山親方のイケメン井筒3兄弟をご紹介します。
三男:元関脇寺尾・錣山親方
元関脇寺尾・錣山親方の死因は、うっ血性心不全。
2015年の秋場所中に不整脈の検査入院をしています。当時、兄の井筒親方(元関脇・逆鉾)は「心臓が肥大気味なのは間違いない。稽古(けいこ)していたから」と、現役時代の猛稽古が心臓に負担をかけていたと語っていました。
2022年11月の九州場所で「阿炎」が優勝したその時も、錣山親方は不整脈などで体調を崩して入院中でした。
2023年12月、東京都内の病院に入院中だった錣山親方は、12月17日の未明に病状が急変し、午後8時27分うっ血性心不全により逝去されました。享年60歳。
元関脇・寺尾の錣山親方のwikiプロフィールをご紹介します。
- 名前:寺尾常史(てらおつねふみ)・引退後は年寄・錣山(しころやま)
- 本名:福薗 好文(ふくぞの よしふみ)
- 四股名:寺尾 節男→源氏山 力三郎→寺尾 節男→寺尾 常史
- 生年月日:1963年2月2日
- 年齢:60歳没 死因:うっ血性心不全
- 出身地:鹿児島県
- 身長 185cm 体重 116kg
- 所属部屋 :井筒部屋(時津風一門)
- 得意技 :突っ張り、押し、いなし、叩き、下手投げ
- 最高位:東関脇
- 生涯戦歴 860勝938敗58休(140場所)
- 幕内戦歴 626勝753敗16休(93場所)
- 優勝 十両優勝2回
- 初土俵 1979年7月場所 入幕 1985年3月場所 引退 2002年9月場所
錣山親方は、井筒部屋のある東京都墨田区で生まれ育ちました。出身地が鹿児島県なのは、大相撲入り後に父の出身地である鹿児島県を自身の出身地として届け出たからのようです。
相撲を始めたのは、安田学園高校入学後だったそうです。
入部後は相撲にのめりこむようになり、各界入りを目指しましたが、長兄が次兄の各界入りを反対していたこともあり言い出せず。
ですが、1979年16歳の時に母親が癌で他界。死ぬ間際に「相撲取りになって」と言われたことや、長兄から相撲取りになったらと言われたこともあり、母親の通夜の晩に父に入門の意思を伝え、そのまま高校を中退し相撲の道へと進みました。
父が師匠の井筒部屋へ兄達に続き入門。1979年7月場所初土俵、四股名の「寺尾」は母親の旧姓だそうです。
高校(東京・安田学園)に進学したが、79年5月の夏場所千秋楽に、子宮がんを患っていた母・節子さんが43歳で死去。その出来事が角界へと突き動かした。最愛の母の最期をみとった寺尾は「俺も相撲取りになる」と誓い、2年生で中退し、井筒部屋へ入門。同年名古屋場所、母の旧姓である「寺尾」のしこ名で初土俵を踏んだ。
https://news.goo.ne.jp/article/hochi/sports/hochi-20231217-OHT1T51236.html
甘いマスクと筋肉質の体型で、女性ファンの人気は高く、若い頃はその敏捷な動きから海外公演で「タイフーン」の通称がついたほどの人気力士でした。
成績は十両優勝が2回で、生涯戦歴は860勝938敗58休(140場所)。幕内戦歴は、626勝753敗16休(93場所)。
また、敢闘賞3回、殊勲賞3回、技能賞1回と素晴らしい成績を残されました。
さらには、通算出場(歴代4位)、幕内連続出場(同4位)など、休むことなく土俵に上がり続けた末の記録で「鉄人」とも称されています。
しかし、順風満帆の道のりではなく、体重を増やすのに苦労をしたそうです。
横になると食べたものが出てしまうので、座って寝るなどの努力を5年間続けて、85㎏から100㎏に増量できたとのこと。
初土俵の時に85kgしかなかった体重を100kgまで増やすために大変な努力をしたという。横になると口から食べたものが出る程食べ、夜も食べ物が胃から腸に下りるまで壁に寄りかかり、横になれるのは明け方から数時間程度という生活を約5年続け、100kgの大台に乗ったのは1984年(昭和59年)9月場所のことである。
引用:Wikipedia
減量もつらいですが、増量もかなりつらいことですね。
引退後は、年寄・錣山を襲名、井筒部屋の部屋付き親方を経て2004年1月、錣山部屋を創設。
錣山部屋からは2022年3月場所までに関脇・阿炎、小結・豊真将、幕内・青狼、十両・彩、王輝を出し、
2022年11月場所では、弟子の阿炎が幕内最高優勝を果たしました。
「阿炎」の名は、錣山親方の愛称「アビ」から名付けています。由来は、赤ん坊だった頃、井筒部屋を訪れた外国人が発した「a baby(ア・ベイビー)」がきっかけだそうです。
自分の愛称を付けるのは、それだけ期待の星だったのでしょうね!
3人兄弟の末っ子の愛称「アビ」は赤ん坊だった頃、井筒部屋を訪れた外国人が発した「a baby(ア・ベイビー)」がきっかけ。その愛称は、後に弟子となる阿炎のしこ名につながった。
https://hochi.news/articles/20231217-OHT1T51236.html?page=1
病状
錣山親方は、2015年の秋場所中に不整脈の検査入院をしています。当時、兄の井筒親方(元関脇・逆鉾)は「心臓が肥大気味なのは間違いない。稽古(けいこ)していたから」と、現役時代の猛稽古が心臓に負担をかけていたと語っていました。
近年は体調を崩し、15年秋場所は不整脈の検査入院のために途中休場した。当時同じ審判部で副部長だった兄の井筒親方(元関脇・逆鉾)は「心臓が肥大気味なのは間違いない。稽古(けいこ)していたから」と、現役時代の猛稽古が心臓に負担をかけていたとの見方を明かしていた。
https://topics.smt.docomo.ne.jp/article/mainichi/sports/mainichi-20231217k0000m050177000c
実は、2022年11月の九州場所で「阿炎」が優勝したその時も、錣山親方は不整脈などで体調を崩して入院中でした。
師匠は九州場所前に不整脈などで体調を崩して休場。場所中は都内の病院で療養し、初優勝の瞬間は病室で静かに見届けた。
https://hochi.news/articles/20221217-OHT1T51161.html?page=1
ですが、翌月には退院し、足のけがを押して優勝した愛弟子をほめたたえていました。
「お相撲さんは気は優しく、力持ちで、強くなければいけない。強いとは相撲だけではなく人に弱みや痛みも見せないこと。(阿炎は)土俵上で一切、痛みを見せなかった。私が思うお相撲さんになったと、それがうれしかったですね」
https://topics.smt.docomo.ne.jp/article/mainichi/sports/mainichi-20231217k0000m050177000c
そして、東京都内の病院に入院中だった錣山親方は、12月17日の未明に病状が急変し、午後8時27分うっ血性心不全により逝去されました。享年60歳。
元関脇 寺尾の錣山親方は心臓に持病を抱えて入院していましたが、17日の未明に病状が急変し、日本相撲協会によりますと、17日夜、うっ血性心不全で亡くなりました。60歳でした。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231218/k10014291471000.html
弟子がしっかりと育っていますので、意志を継いでいくことでしょうね。
長男:鶴嶺山
長男鶴嶺山の死因は、急性心不全都内の自宅で死去。2020年3月28日享年60歳。
末弟の錣山(元関脇寺尾)によると、亡くなる前日まで経営するちゃんこ店で普段通り接客をしており、呼吸停止の状態で朝に発見されたそうです。もともと心臓の持病があったそうですが、逆鉾の死からわずか半年後のことでした。
長男、鶴嶺山のwikiプロフィールをご紹介します。
- 名前:鶴嶺山 宝一(かくれいざん ほういち)・引退後は年寄・
- 本名:福薗好政(ふくぞの よしまさ)
- 四股名:鶴嶺山 鶴ノ富士
- 生年月日:1959年11月24日
- 年齢:60歳没 死因:急性心不全
- 出身地:鹿児島県
- 身長:182cm 体重 122kg
- 所属部屋 :井筒部屋
- 得意技 :突っ張り、諸差し、寄り
- 生涯戦歴:326勝260敗93休 勝率.556
- 幕内戦歴:40勝48敗17休 勝率.455
- 優勝:三段目優勝:1回 (1984年5月場所)序二段優勝:2回 (1985年9月場所、1987年3月場所)
- 初土俵 1975年
鶴嶺山は、中学校卒業後の1975年3月場所で初土俵を踏みました。同期生には大関若嶋津、霧島、関脇太寿山らがいたそうです。
入門から6年後の1981年、7月場所に弟の逆鉾とともに十両に昇進。
稽古中に右肩を脱臼し完治せず、その後は休場を繰り返します。
長期休場の後は三段目や序二段で優勝もしましたが怪我は長引き、関取復帰を果たせないまま1990年1月場所をもって廃業になりました。
廃業後は東京・両国で、相撲料理「相撲茶屋 寺尾」を経営しています。
2020年3月28日、急性心不全のため都内の自宅で死去されました、享年60歳。
末弟の錣山(元関脇寺尾)によると、亡くなる前日まで経営するちゃんこ店で普段通り接客をしており、呼吸停止の状態で朝に発見されたそうです。もともと心臓の持病があったそうですが、逆鉾の死からわずか半年後のことでした。
末弟の錣山(元関脇寺尾)によると、亡くなる前日まで墨田区内で経営するちゃんこ店で普段通り接客をしており、呼吸停止の状態で朝に発見された。もともと心臓の持病があったため、睡眠中に体調の急変があったと見られる。四十九日が過ぎるまでは公表を控えていたという。
引用:Wikipedia
次男:逆鉾
次男逆鉾の死因は、すい臓がん
2019年7月の名古屋場所後に糖尿病が悪化し、検査により膵臓がんが発覚。
名古屋場所後から体調を崩し、夏巡業と秋場所も初日から休場。8月から都内の病院に入院し、この日昼までは病室で知人と会話をするなどしていたが、夜になって容体が急変。
2019年9月16日午後9時11分、東京都内の病院で逝去。享年58歳。
次男、逆鉾のwikiプロフィールをご紹介します。
- 名前:逆鉾 昭廣(さかほこ あきひろ)・引退後は年寄・井筒を襲名、井筒部屋で後進の指導に
- 本名:福薗 好昭(ふくぞの よしあき)
- 四股名:福薗 好政→逆鉾 昭廣→逆鉾 信繁→逆鉾 伸重
- 生年月日:1961年6がつ18日
- 年齢:58歳没 死因:膵臓がん
- 出身地:鹿児島県
- 身長:182cm 体重 130kg
- 所属部屋 :井筒部屋
- 得意技 :左四つ、寄り、もろ差し、外掛け
- 最高位:東関脇
- 生涯戦歴:551勝567敗29休(89場所)
- 幕内戦歴:392勝447敗16休(57場所)
- 優勝:序ノ口優勝1回 賞 殊勲賞5回、技能賞4回
- 初土俵 1978年1月場所、入幕 1982年11月場所、引退 1992年9月場所
逆鉾は中学卒業後に、入門を希望しますが体が小さいことから、長兄の猛反対で断念。
目黒高校に進学し、相撲部では1年生から活躍し反対していた兄も折れ、高校を中退し井筒部屋へ入門。
1978年17歳の時に、福薗の名で初土俵を踏みました。
1981年20歳7月場所に、兄と同時に新十両に。1982年井筒部屋伝統の四股名・逆鉾に改名。
1984年23歳、7月場所に小結を飛び越して関脇昇進を果たしました。
生涯戦歴は551勝567敗29休(89場所)、幕内戦歴は392勝447敗16休(57場所)、
優勝は序ノ口優勝1回、その他にも殊勲賞5回、技能賞4回など素晴らしい成績を残しました。
1992年現役引退後は年寄・14代春日山を襲名し、井筒部屋付きとなりました。
1994年には、井筒に名跡変更して部屋を継承、直弟子の鶴竜を横綱まで育て上げるなど手腕を発揮しました。
その手腕は、3人の息子を名力士に育て上げた、父親に似ているようですね。
病状
2019年7月の名古屋場所後に糖尿病が悪化し、検査により膵臓がんが発覚。
名古屋場所後から体調を崩し、夏巡業と秋場所も初日から休場。8月から都内の病院に入院し、この日昼までは病室で知人と会話をするなどしていたが、夜になって容体が急変。
井筒親方は、名古屋場所後から体調を崩していたという。現在は日本相撲協会の巡業部副部長などを務めているが、夏巡業と秋場所も初日から休場。関係者によると、最近は持病の糖尿病に加えて、膵臓がんを患っていたとの情報もある。今場所前の8月から都内の病院に入院し、この日昼までは病室で知人と会話をするなどしていたが、夜になって容体が急変したとみられる。
https://hochi.news/articles/20190917-OHT1T50014.html?page=1
2019年9月16日午後9時11分、東京都内の病院で逝去。享年58歳。
お読みいただきありがとうございました。
井筒3兄弟のご冥福をお祈りいたします。
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